釣ることだけが「釣り」じゃない、ということ。
また都会に戻ってきた。
思えばしばしば雑多とか混沌とか冷酷といった言葉で形容されるこの街に自分も住んでもう4年になる。
自分はこの街に来た時、この街のことがどうにも好きになれなかった。
満員電車、人混み、酔っ払い、喧嘩、道に吐かれたゲロ。
うるさくて、汚いところだと慣れないこの街を毛嫌いしていた。
しかしまあ4年も住んでいると想い出も友人も少なからず出来てくるし、どこか印象も変わってくる。
満員電車や一部ヤバい人がいるのを除けば、買い物とかは便利だし交通機関も発達してるしでこの街に住み続けるのも決して悪くない、と今では思う。
よく都会は冷たく、その対照として田舎は温かいと言われるけれど、実際に住んでみると都会の変人の多さ故の笑「どんな社会不適合者でも文句なく吸収し、無関心でいてくれる懐の広さ」みたいなものに自分はたまに温かさを感じることがある。
頭が痛くなるような満員電車やそこら辺で互いに無関心にすれ違う多くの人たちでさえ、自分を無条件に許容しその一部として生かしてくれているようでどことなく安心感を得られる自分がいる。
住めば都とはよく言ったものだけれどこの変わりようには不思議なもんだよなあ、と心から思う。
人付き合いがあまり得意ではないくせに寂しがり屋な自分のような人間に意外とこの街は優しいのかもしれない。
振り返ってみればこの街に来る前、自分は好きだった人に「ノーベル賞を獲る」と冗談まじりで告白した。
若かったなあ笑。そして相変わらずクサい笑。
あの自信満々かつ希望に満ち溢れて笑?上京した青年もこの街で挫折を覚え、そしてフラれ、現実というものに叩きのめされた。
そして言い訳を鎧の如く身に纏い逃げるように釣りというものに陶酔していくのであった。めでたしめでたし。
話が脱線したので戻す。
前述したように昔は嫌いだったこの街を自分は今はもう嫌いだとは思わない。
良い思い出も悪い思い出もそれなりにできたし、良くも悪くも色々な人に出会えた。
だけども、当然今の自分の追いたい夢、叶えたい希望というものは居心地の良くなったこの街には無いわけで。
この街の、世界一居心地の良い、自分の匂いの染み込んだベッドの上で僕はいつも空っぽになる。
そして空っぽ人間は夢を見たくなるものだと相場が決まっている。
自分はついついパソコンで夢を見てしまう。
画面に映り出されるのは意味も分からない巨大魚の数々、そして見とれてしまうほどの美しい景色。
鼓動が強く、早くなるのが分かる。
自分の手でその魚を掴めるのか、自分の足でその地に立てるのか、果たしてわからない。
それでも僕は画面にかじりつき夢を見続ける。
パソコンの中に魚は泳いでいないって分かっていても。
…まあそれくらい暇ということです。
というわけで、最近はあまりやりたい釣りもできないし自分の釣りへの想いについて書いていく。
以前はブログみたいなものはでかい魚を釣ったら始めようと思っていたし、ましてや自分の気持ち悪い胸中を綴るなんて意味がないと思っていたけれども、目標にたどり着くまでに自分がどんな想いを持っていたのか、どんなことを考えていたのか書いておいた方が後々振り返れると思ったのでこういうことも書いておく。
多分後で思い出そうとしても、今ここにあるこの気持ちというものは、汚らわしさとか気持ち悪さという「当然あって然るべきもの」を伴わせてリアルに表現しようとすると、今しか書けないと思う。
思い出はきっと美化されるし、後から書いたものはなんか自分でも綺麗すぎて嘘くさくなってしまうから。
だからこそこの想いを今、書いておく必要があるというものなのである。
さて、前置きが長くなったけれども、興味のある人だけ読んでください。
自分の中では釣りというものに対していくつかのポリシーがある。
その中の一つに「釣るだけが“釣り”じゃない」というものがある。
あなたにとって「釣り」という行為は何だろうか。
魚を陸にあげること?
はたまた魚を狙い通りに喰わせ華麗な技術でファイトしランディングすること?
確かにそれもそうだろう。
ただ、それは「釣り」という行為の一部に過ぎない、と自分は思う。
自分のやりたい「釣り」において最も重要なこと、それは紛れもなく「自分の力で」魚を手にすることである。
「自分の力で」というのは少々伝わりにくい表現で、別に他人のアドバイスを受けるな、とか他人にランディングを手伝ってもらうなという意味では決してない。
ただ、最終的に自分の目標となる魚が釣れた時に、自分自身に躊躇いなく心の底から「よくやった」という言葉を掛けることができる、そんな魚こそが「自分の力」で獲った魚であり、そんな魚を手にしたいという姿勢で釣りに向かい合い続ける行為こそ真の「釣り」だと思うのである。
自分がこの考えに至ったのは、ある国への海外遠征がきっかけである。
自分が海外に釣りに行きたいと思ったのはやはり某怪魚ハンターの影響が大きい。
中学生か、高校生の時か、某怪魚ハンターが出していた本のプロローグのこんな内容に僕は感銘を受けた。
「好きだった子を見返すために、世界に釣りの旅に出た」
これ、シンプルに熱くないですか?
少なくとも当時の自分は死ぬほどカッコいいと思った(今も思ってるけど笑)。
好きな人に振られ、その悔しさをバネに世界に釣りの旅に出る。
青春とかなんだとかは置いておいて、好きな人に振られた悔しさだけをエネルギーに命を顧みず世界中で怪魚を釣り歩いたってすごくないですか?カッコよくないですか?
俺が女の子だったら間違いなく惚れる。
少なくとも自分に対しての想いがそんなに大きかったなんて嬉しい…と思うと思う。
これを周りの人に言うと感覚がバグってるとかよく言われるけれど、俺にとっては好きな子にカッコつけるためだけにそんなことをやってのける男意気(メンヘラと紙一重?笑)みたいなものが、馬鹿らしくてダサいけど、それも含めて(というかそれ自体が)カッコよくて最高に憧れる。
また話がそれてしまった。
自分は以前、何故かパプアンバスという魚に異常に魅せられていていつか釣りたいと思っていた。
しかしそれに関する情報は本当に少なく、情報収集は容易ではなかった。
ツアーはあるが、高すぎる(航空券抜きで40万とか)。
結局分かったことはたった一つ。
「ある国のある地域(といってもかなり広大)に行けばパプアンバスが狙える」ということ。
本当にそれだけ。
もちろんガイドブックになんか載っていない辺鄙な場所だし、その地域に行った人の情報さえほとんど見つからなかったからかなり怖かった。
おまけに少しある情報と言えば危ないから絶対に1人で行くなとか。
はたまたそこに行くと宣言していた旅人のブログの更新がそれっきりで止まっていたり。
果たして行ったところで釣りができるのか、そもそも行って大丈夫なところなのかすら分からないから航空券になかなか手が出なかった。
そんな中、後輩が日本三大怪魚であるイトウを釣り上げたという報告を受けた。
憧れの魚を手にした後輩と、部屋でアダルトなビデオを見てオ◯ニーしている自分。
惨めだった。
何故かテンションがおかしくなって、そのまま当時好きだった女の子に告白した(ドSっぽい子。好きなんだな)。
そして、同時に何故か「知らない土地に行くこと程度にビビっている度胸のないやつが、その子を幸せにできんのか?」という自問自答が始まった。
前述のように某怪魚ハンターに憧れていたのもありその女の子に相応しい男になるためにと決意し、その勢いで航空券を取ってしまった。
翌日の朝、まだ眠たい目に飛び込んできたのは航空券のe-チケット(キャンセル不可)と愛しのあの子からの悲しいお返事。
ただただ辛かった。
この世の全てを恨んだ。
「パプアンバスを釣ったら僕と付き合ってください」
再度あの子に言おうと思ったけれど、そこは熱が冷めたチキンな僕。
結局何も言えないまま、悲しみとバックパックを背負い僕は独りで海を越えた。
心配とは裏腹に現地の人はとても優しく、「釣り」と「魚」という2単語しか覚えてこなかった僕をいろいろと助けてくれた。
途中、あそこ(目的地)は危険だから注意しろとか言われてかなり怖かったけれど、親切な方達に助けられなんとか目標の場所まで到達。
そこで紹介されたのは現地の釣りガイドだった。
あまり英語の通じない人だったけど、飾ってあるパプアンバスの写真を見て一安心。
本当はガイドは使いたくなかったけれど、英語が全く通じないこの土地で他にあてがあるわけでもないし、時間も限られていたし、何よりビビりまくっていたのでガイドを雇うことに。
しかし、ガイドから提示された金額に僕は驚いた。
なんと4日で約10万。
別にぼられているわけではなく、インターネットで調べていたパプアンバスのツアーの値段を考えれば妥当なんだと思う。
それでも高すぎるので交渉して3日で7万にまけてもらい、その条件で飲むことに。
暇だったので村の子供達と遊んだりしたけれど、僕の心はすでにお金のことで放心状態。
楽しかったけれど、この時はもっと楽しめばよかったなあ。
釣りが始まっても残念ながら放心状態は続いた。
やはりガイドを雇っただけあって釣りの面ではほとんど不自由がなく時間が進んでいった。
釣れるか心配だったパプアンも、結局3日間やって15匹近く釣れた。
そこそこのサイズも釣れた。
笑顔で写真を撮った。
でも、叫べなかった。
この瞬間のために生きていたはずなのに。
何故か満足できなかった。
何故か思いっきり楽しめなかった。
…遥か遠い夢の土地で竿を振っているはずなのに、想い続けてきた魚を手にしたはずなのに、俺の心に込み上げてくるこの虚しさは一体なんなんだ…?
虚しさの正体は分かっていた。
…この魚は自分の力で獲ったのか?
…これはお金で釣ったんだろ?
「とどのつまり、釣果というものはお金で買えるんじゃないのか?」という悲しくも紛れも無い「真実」に気づかされたのだった。
そして、本当に自分の力で獲ったと言えなければいくら大きい魚を釣ったって夢の魚を釣ったって自分は満足なんてできないことにも。
海外で釣りをするということなんてない別に珍しいことでもない今日、世界中の秘境に怪魚を釣るためのツアーがある。
むしろツアーでしか行けない秘境もあるだろうし、昔から怪魚をやっている人によると便利な時代になったらしい。
ツアーを使うこと、それ自体は別に悪いことではないと思う。
短い日程で、快適に、なにより安全に、容易にはたどり着けない秘境で怪魚を手にすることができるというのはとても素晴らしいことだと思うし、そういう産業があっても別に良いと思う。
でも、果たして、それは「自分の力で獲った魚」と言えるのか、と自分は強く疑問に思う。
某怪魚ハンターはツアーに頼らず現地のローカルと仲良くなって釣りをしているらしい。
そして、なによりそれでとてつもなく大きな結果を残している。
そんな話を聞いたら、自分のやってることなんとてつもなくちっぽけなことばっかりで恥ずかしくなってくるし、同じ魚を釣っていても価値が違いすぎると思う。
まあ、他人が出来ないことをやっているから有名なんだけろうけど。
アマゾンなんかでも100万くらい払ってマザーシップというでかい船に泊まりながら至れり尽くせりのサービスを受けて釣りをするツアーがあるという。
SNSとかでよく見るけれども、それで憧れの土地で魚を釣りました、とか胸を張って言えますか?自慢できますか?ってことである。
自分はできないな、と思う。
そして、これは別に怪魚釣りだけでなくいろいろな釣りにも当てはまる。
金を積み、安全と快適を得ること、それは残念ながら同時に「釣り」における最も面白い部分を取り除いてしまう行為でもある。
知らない土地に行き、何も分からない中模索し、時に危険な目にあい、時に素敵な人々に出会う。
そんな「釣り」の最も素敵で面白い部分を経験しようとせずに魚を手にする行為など、果たして「釣り」の名に値するだろうか。
少なくともそれは自分がしたい「釣り」ではない。
そして、まあそんな「釣り」というものが呑気にできるのは学生でいる間だけだと思ったりもする。
「どうせなら今しかできない釣りがしたい、自分の力で魚を獲りたい」
少なくとも、学生である今は、できるだけ金を積むような釣りはしたくないし、今自分が最も追いかけるべきは自分の力で獲ったといえる自分を納得させられる魚なんだなあと痛感させられた釣行だった。
まあそんなわけで、自分が今やっているのは遠征であり、ショアであり、地磯であるというわけだ。
そしてこうやって時間を掛けお金を掛け、セコセコと「演出」を効かせているわけなのである笑。
でもまあそろそろ「名(迷?)プロデューサー俺」による時間を掛けすぎたこの「演出」も終わりにしたい。
残された時間で、なんとか本当に心から自分におめでとうを言える1匹を釣り上げたいものだ。
そして、それを成し遂げた時、僕の眼にはどんな景色が映るんだろうか。
このクソみたいな自分も世界も少しは輝いて見えるといいなあ。
さて、金も実力もない人間は変な方向にトガってしまうもの。
反面教師にしてください。
でも、大学生になったばかりとか未来のある若者笑とか本当の意味で魚を「釣りたい」という気持ちがある人にはこういう考え方もあるんだなっとは知って欲しいとは思う。
そして、是非自分がやりたい釣りに辿り着くヒントにして欲しい。
時間は戻らないし、後悔は先に立たないから。
最後まで読んでくれた人、いないと思うけど、ありがとうございました。