ドロップアウトと二度目の上京
先日、会社の同期たちの前で退職の挨拶をして、「自分はいよいよ本当に社会からドロップアウトしてしまったのだな」となんだかとても切なくなった。
相変わらず同期たちの目はやる気に満ち溢れ、口からは威勢の良い言葉が放たれていた。
会社を去っていく自分とは全く対照的だった。
分かってはいたが、自分は社会の中で落ちこぼれでしかなかった。
最後に自分の評価シートを見せてもらう機会があったのだが、周りのみんなが丸ばっかりついていた中で、僕のシートだけバツだらけだった。
そこには協調性がない、協働性がないと書かれていた。
社会から溢れるだけならば別に構わないのだが、その溢れてしまった者達の受け皿が果たして存在しているのだろうかと考えると、そんな生易しいものはこの世には一切ないような気さえする。
この世のほとんどが社会で、社会がこの世のほとんどなのだから当たり前なのだけれど。
だから社会から溢れるのは、溢れてみたら分かるが、ふとした時に結構しんどくなる。
ああ、俺はダメなやつなんだ、とか。
俺はこの先どうなってしまうんだろう、とか。
自分の心は、そしてなりたい自分は間違いなくこの道の先にいるはずなのに、そしてもしかしたら溢れることを望んでさえいるかもしれないのに、どこか信じられず、自信を持てず、この世界に自分の居場所はどこにもないような気さえしてしまう。
こっちだって別に積極的に溢れようとして溢れているわけではないってのにね。
思えば社会人として生きて、あっという間の一年だった。
辛かったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと。
思い返せばいろいろあったけれど、結局この一年は自分にとってなんの意味があったのだろうか。
この一年で得たもの…それは社会に対する反骨心と自分が社会不適合であることの自覚でしかないとさえ思う。
だからこそ、これから上手くやっていけるのかって部分に関しては正直不安が多い。
博士課程を卒業したその先に何がある?
どんな人生を送りたくて、そのためには何をすれば良い?
…まださっぱり見えてこない。
ああ、会社の研修では3年後5年後のビジョンをしっかり描いとけって言われてたな…。
クソ喰らえだと思ってた言葉の数々が、自分自身で人生の責任をとらなきゃならなくなった今、ようやくその重要性が身に染みて分かってくるのはかなり皮肉なものだな、なんて。
そんなわけで将来の不安のことを誰かに話す。
年上の人からはまだ若いから大丈夫なんて言われるけど、自分には若いという自覚はもうなくて。
むしろ例えば大学に入るピチピチの新入生なんてもう直視できないほど、自分には眩しすぎる。
若いなあ、若いっていいなあって思ってしまう。
そんなことを感じる度に、今では焦りよりも切なさみたいなのを感じる時すらある。
…歳、とっちまったよな。
歳だけはやっぱり取りたくないよな。
でも多分僕がそう思うのと同じ気持ちを僕の10個上の人たちはきっと感じていて。
だからこそ、この一瞬を、この1秒を大切に、全力で今を生きていかないといけないと思う。
当たり前なくせに、なかなか気づけないけれど、毎日何気なく過ごしてしまうこの日には、この時には、もう二度と戻れない。
自分にとって、今日という日がこれからの人生の中で1番若い日なんだ。
だからこそ人生を無駄にしてはいけない。
自分の時間の価値を信じるならば、自分の時間がお金とか他のどんなものにも変え難いと本気で感じるならば、結局自分のやりたいことを、自分の決めた道を、どんなに怖かろうが信じて貫くしかなかったんだ。
…ちょっと前まで怖いばっかりだったけど、最近はちょっとずつ不安も落ち着いてきたのかもしれない。
それでも、相変わらず僕は夢とか希望とか、ガキみたいなものはいっぱい持っているけれど、やっぱり身体的には確実に歳はとっていて、中学生のあの頃のようなAVを見るドキドキはもうないし、汚い話、あれほど元気だった下半身ももう元気でなくなってきてしまった。
もういい年の大人なんてことは分かっていて。
それでも「やっぱり」夢は見たくて。
映画やドラマみたいな青春を「どうしても」味わいたくて。
「まだ」諦めるわけにはいかないんだと。
「それでも」全力で挑みたいんだと。
きっと、社会不適合なんて残念なことだけではなくて、大切なものを再確認した、そして重大な決心ができた一年だった…と思う。
…信じたいだけかもしれないけれど、俺はやっぱり何かに夢中になって熱く生きたい。
これから僕は人生で二度目の上京を迎える。
一度目の上京と何が変わっただろうかと考えると、何もかもが変わってしまった気がする。
年齢も、モチベーションも、自信も、何もかも。
もうノーベル賞が取れるなんてことははなから思っちゃいないし、自分の能力や限界もある程度客観的に見れるようになってきた。
好きな人にもノーベル賞を取るなんてでかい夢は語れなくなったし、将来に対しての不安も大きくなった。
それでも、まだ、自分を客観的に見れない部分があるからこそ、やっぱり俺はこの道に立っているんだろう。
自分の可能性を信じたいからこそ、安定という名のレールから降りて(脱線しただけかもしれないが)、道なき道に自分を賭けているんだろう。
実は一回目の上京とその本質はそんなに変わっていないのかもしれない。
相変わらず夢みがちで、結局のところ胸は高鳴っている。
信じた道の先に希望がないわけがない。
この高鳴りが逃げであるわけがない。
やるしかないんだ、結局。
仲の良い友達にも博士行くことについて良くないことを言われたりして、なかなか信じてもらえなくて辛かったけれど、自分が博士に行くのはモラトリアムの延長のためというよりは(そういう部分が全くないかと言われたら嘘になるけれど)、これまでいろいろとやってみて、釣り以外で純粋にちょっと面白いと感じてちょっと熱くなれるものが結局、修士時代の研究だったというだけなんだ。
これが漫画で、俺が主人公だったら「他でもない、この胸の高鳴りだけを信じて…‼︎」なんて「未来」という次号への煽り文が載っているのかな、なんて。
何度も言うけど俺には何もない。
これからの成功を裏付ける能力も、実力も、実績も今の俺には何もない。
それでも、このどうしようもない気持ちを信じて、どうしようもない道を選んだことがいつか自分の人生を輝かせてくれるといいな。
漫画の主人公とは違う、ダサくて、キモくて、情けなくて、どうしようもないやつだけど、俺だってやっぱり自分の人生という物語の上では主人公でありたい。ヒーローでありたい。伝説でありたい。
それでも、やっぱり、今の俺の力や実績じゃあ自分を信じるに信じられない自分がいる。
同じ部署ですごく楽しそうにやってる同期見てたら、ちょっと前まではなんだか涙が出てきた。
笑い声聞くたびにめちゃくちゃ辛くなったし。
優しい上司にあたって、上司と楽しそうに話して、早く帰れて、世渡りも上手くて。
なんだかなあ。
甘えなのかなあ。
自分を信じるか信じないかはとどのつまり自分次第なんだろうけれど、ああ神様、社会不適合として生を授けたならば、その孤独に耐えられるだけの、そのディスアドバンテージをひっくり返せるだけの、自分を信じていけるだけの、どうか尖った何かを僕にください。
卑屈や強がりではなく、どこにいても自分が確固たる自分として存在を許されるような力を僕にください。
…でも、この一年でそんな僕を信じてくれる人にも出会えて。
…その、彼女ができました。
なんで僕のこと信じてくれたのかは分からないけれど、信じてくれるのはやっぱりそれだけで力になるし、信じてくれたからこそ、やっぱりきちんと責任は果たしたい。
責任を果たすというのは夢には合わないかな。
どこまで伝わってるかは分からないけれど、彼女に伝えた夢をきちんと貫き通したい。
と、ここまで書いて、自分がこれまで絶対になることはないと思っていたステレオタイプのバンドマンが言いそうなセリフと本質的には何ら変わらないことに気づいてまた恥ずかしくなる。
これまでの人生で1番大きな不安と、これまでの人生で1番大きな幸せと。
今のちっぽけな僕には抱え切れないな。
誰かが信じようが信じまいが、それでも、自分を信じて、いつか「ビッグ」になってやる。
P.S.
この一年、釣りは、釣りの楽園と言われている九州に住んでいたわりに全然釣れなかった。
ビッグゲームは、ハイシーズンには鹿児島出張の後、福岡で渡船とか、佐賀出張の後、鹿児島で渡船とかちょくちょくいろいろやってみたけれど、バイトすら得られなかった。
唯一良かったのはこれ。
6回だけ遠征して釣れたから運が良かった。
厳しめに測って99cm。
またここに来る理由ができた。
あとはずっと釣りたいと思ってたこれ。
小さいけど、憧れのひとつだったので嬉しかった。
こんな感じで小さい頃からの夢をひとつずつ叶えていけたらいいな。
でも今年はやっぱり震えるほどでかい魚が釣りたい!
頑張っていきます。